人気ブログランキング | 話題のタグを見る

Live & let live

waiwai3.exblog.jp

浮浪児になった子の証言・浮浪児狩り

下に書いた理由でずっと気にかけていたリンク先の作者が。
「戦争孤児の会 金田茉莉」様だろうと推察しました。

戦争孤児(日本)

お許しを得ようとメールしましたが・・・。
ご連絡を頂けなかったのでこのまま掲載することにしました。
(2018年10月25日追記)


昨日のブログ。
幾つかリンクさせていただいたけど。
浮浪児と軽蔑された戦災孤児
この中にさらに幾つかのリンク。
かなりショッキングな内容。
ただ、私のような老人には読みにくい。
列毎の文字数が長いせいだと思う。

本来なら許可を得なくてはならないのだけれど・・・
どこで許可を得たらよいのかも分からないので・・・
申し訳ないけれど勝手に改行させていただきます。
昨日読まれた方には重複になりますが。

昨日のブログには戦災孤児と書きました。
書き終わってから気づきました「戦争孤児」が正しいのでは、と。
体験談を話されている方たちがいます。
番組概要 「それでも 私は生きた-いま明かされる戦争孤児の実像-」
いま明かされる 戦争孤児の実像~  2013年3月8日 NHK放送

最下段の写真と絵、母への手紙の文章、泣けました。

長い記事なので途中で読むのを止められるかと思います。
でも、読んでおく、知っておくべきではないでしょうか。
孤児たちの辛さは勿論ですが、それよりも、私たちが「その時」になったらどんなに残酷になれるかを知っておくために。

浮浪児になった子の証言
M Mさん、12歳男(小6年)
両親を失ったたあと親戚へ預けられたが、嫌がらせをうけ、いたたまれずに家を出た。
行く先はなく寝るところも食べ物もない。
上野地下道には自分と同じ弧児たちが大勢いたので仲間になった。
浮浪児と呼ばれ「近づくな、目を合わせるな」と、世間の人たちは汚物を見るような目で遠巻きにして眺めるだけ。
食べ物を恵んでくれる人はいなかった。

 なにしろ腹がへる。10日も食べられない日もあった。
盗んで食べるより仕方なかった。
盗むと大人から殴る蹴る、コン棒でメチャクチャに叩かれた。
それでも盗む。盗みが成功したときは食いだめをする。
そのせいか腹をこわすし胃拡張になり、常に飢えていた。
死んだ子は大勢いる。餓死や凍死、変死した。自殺した子もいた。

 「刈り込み」で捕まり板橋養育院へ入れられた。
子どもの死体がごろごろ廊下にまでころがっているのを見て、いずれ自分もあのような姿になると思い、逃げないよう鉄条網で張りめぐらされていた塀を夢中で乗り越え逃げた。

 それからお台場へいき盗みをした。
台場は当時は離れ小島だった。
台場にはアメリカ占領軍の食料倉庫があり、食料は驚くほど豊富にあった。
そこで水上警察に捕まり「東水園」という孤児施設に入れられた。
施設は水上警察が見るに見かねてつくったのではない。浮浪児を持てあましていたのだ。
昭和21年9月に東水園が設立され、最初は14人が入所、自分はその内の一人だ。
東水園で生活したのは22年9月ごろまで1年足らずだった。
そこでの生活は海にもぐり、B29の残がいを引き揚げてくる作業だった。
遺骨も海底にあった(空襲死者の遺骨か?)。
大人でも大変苦しい仕事を子どもにやらせるのである。
あまりにも苦しく辛い作業に、隙をみて逃げたが、また捕まった。

 東水園では勉強はしなかった。
水上警察署の職員は我々子どもに非常に冷たかった。
殴る蹴るは日常茶飯事であった。子どもに配給される米を横取りしていた。

 その後キリスト教の「あいりん会」が経営する「若葉寮」に入った。
ここは軍隊の馬小屋を孤児施設にしたところである。
施設長がいい人だったので逃げなかった。
中学、高校へ通い、あいりん会の職員になって夜間大学へ通った。

K Hさん、14歳男(中学生)
広島原爆孤児

 原爆でたったひとり残された。
東京へ出てきたが、行く先がなく上野地下道で浮浪児に。
浮浪児の生活はMとまったく同じである。
明日は生きていないかもしれないと思う日々だった。
また、なんらかの形で、大人は孤児を利用しようとした。
ひどい仕打ちをうけてきた。
子どもは訴えられない。
大人は自分に都合のいいことしか言わない。
人間扱いされなかった。
二度と思い出したくない。
Mとは東水園、若葉寮と一緒だった


金田メモ
 1999(平11)年戦後54年目、ある映像会社がお台場で生活した孤児の放映を計画、上記2名に取材を申し込んだが拒否され、「金田さんなら取材に応じてもよいが、氏名、顔写真は出してはならぬ」という条件つきで、私が千葉県まで取材にいき話を聞いた。
 当時のお台場には数千人の浮浪児がいたといわれているが、東水園へ入所しても逃げ出す子が多かった。台場で生活した孤児2名だけが現在判明した。他は不明である。

山本麗子さん、9歳女(小3)東京空襲訴訟の原告
 1945(昭和20)年5月24日の空襲で父死亡、母も同年11月に病死。
3人の子どもが残され孤児になった。
3人は別々の親戚へ預けられた。
私は叔母宅へいき、学校へは通わせてもらえず、海水から塩をとる作業をさせられた。
昼は山へいき薪を背負い海岸へ運び、夜は薪を一晩中燃やしつづける、昼夜別なく働いた。
9歳では重労働だった。

 2年後、弟の具合が悪いと叔父から呼ばれた。いってみると弟はやせ細り、馬小屋に寝かされ、うどんのような回虫を吐き「おかあちゃん」と呼びながら死んだ。
その弟の姿を見て私は叔母宅へは戻らず、静岡から東京へ徒歩できた。
行く先はなかった。

 上野で浮浪児になった。
喪失感からぼんやりと過ごし、2日に1回おにぎり1個をくばってくれるおばさんを待つ日々だった。
刈り込みで捕まり、トラックに載せられ、山奥へ棄てられた。
(後で考えると茨城の土浦方面だったと思う)子どもたち同士で声をかけあい、山を下り、上野へ戻り、また浮浪生活を数年した。
生きているのが不思議に思う。

 働ける年代になって寺の茶坊主になり、20歳前に東京へ出て料理店で働くようになった。
学校は小学3年で止まった。
11歳の兄とは両親死亡後あっていない。
行方不明になったままである。


金田メモ
 山本さんは病気療養中にもかかわらず、高額金が必要な訴訟の原告になった。(原告は国へ納める印紙代5万円その他が必要、敗訴になれば更に1、5倍の費用がかかる)。
それでも控訴に加わった。国からゴミとして棄てられた彼女の無念、怒りが訴訟へ駆り立てたと思う。生きてきた最後の叫びだ。

金子トミさん、15歳女(中学生)
 東京の江東区に住んでいたが、家族揃って母の実家のある山形へ疎開した。
その疎開先で8月10日、家の裏に爆弾が落ち、母と妹が死んだ。
父も後を追うように死んだ。残されたのは私と小学4年の弟と小学2年の妹の子ども3人だった。
伯父から父の実家へ行くようにいわれたが、母は父方の親戚と付きあいがなかったので面倒はみてくれない。

 自分が働いて弟妹の面倒をみようと東京へ出てきたが、東京は焼け野原になり廃墟になっていた。
東京大空襲のことは何も知らなかった。
結局、上野公園の昔式の便所(畳半分ぐらい)で3人が寝ることになった。
山形を出るとき母の弟が内緒でくれたお金があったので、その金でさつま芋を買い、弟と妹に与え、自身は食べないときもあった。
昭和20年8月、敗戦後に上野へきて、21年の春先まで上野て浮浪児生活をした。

 おいも屋のおばさんから田舎の農家を紹介され、3人で農家へいった。
その農家では朝早くから夜まで、田んぼ、畑、蚕など働き通しだった。
弟と妹は小さいので仕事が充分できない。
お仕置きをずいぶんされた。たまらなくなりそこを逃げた。

 3人で二晩、山で野宿した。
その後、妹だけを親戚へあずけ、私と弟は別の親戚へいったが、そこで私は女中を紹介され、弟と別れた。
それから妹や弟は行方知れずになった。
何回手紙をだしても、おじたちから返事がこない。
数年後、八方手をつくして捜し、やっと弟、妹を見つけ再会した。
妹は貰い子になって苦労し、弟は小学校へもいかず働かされ、読み書きができなかった。
浮浪児の生活は夫にも我が子にも話してこなかった。

浮浪児狩り

    浮浪児
 親戚、知人、養子先を出ていく子どもたち
 心理的虐待をうけた子は、親戚や知人宅、養子先を逃げ出す子が続出した。
とくに男児が多く、親戚に2日いたが追い出された。1年後に出た。2年後と、親戚を出た時期はそれぞれ違うが、しかし、東京へきてみると、見渡すかぎりの焼け野原。我が家は跡形もなく、そして浮浪児になっていくのだった。 また、空襲で逃げまどい、親に死なれ、その日から浮浪児になった子もいた。

「俺たちは野良犬か」
の著者、山田清一郎さんは(小4)は父は空襲で焼死、母は焼夷弾で壕が崩れ、目の前で生き埋めになった。
その日から浮浪児になり、野良犬と同じ、人間扱いされずにきた。
拾うか、貰うか、盗むしか選択肢がなかった。
10歳の子どもが家もなく、食べさせてくれる人もなく、その凄惨さな生きさまには息をのむ。
一度読んでいただきたい本である。
一方、行方不明の親を捜すために家出した子もいた。
死んだと聞かされても、家族全員の死は考えられない。ひとりぐらいは生きているだろうと探す子も浮浪児になった。

 ◇ Yさん(小4女)は空襲で兄弟と3人が残されたが、バラバラに親戚へ預けられた。 
学校へ行かせてもらえず、海水から塩をとるため、山から薪を運び、海岸で一晩中燃やし続ける作業をさせられた。9歳には重労働だった。
二年過ぎたころ別の親戚にいた弟の体調が悪いと知らされ、いってみると弟は馬小屋に寝かされ、「お母ちゃん」といいながら、うどんのような回虫を吐いて死んだ。
弟の死を見て、親戚を出ようときめ11歳で、東京へ戻り浮浪児になった。

◇ Mさん(小6男)は親戚にいたたまれず、逃げだし12歳で上野地下道の浮浪児になった。
お腹がすいてたまらず盗みをすると、大人から殴る蹴る、コン棒で死ぬほど叩かれたという。
腐ったものを食べて死ぬ子、餓死、凍死があとをたたなかった、自殺した 子もいたそうだ。

「浮浪児の栄光」の著種、佐野美津男さんは(小6)空襲で家族が全滅、祖母宅に預けられたが、1年後に家を出て浮浪児になった。
祖母を「クソババア」と呼び、「祖母、親戚への憎しみから生きてきた」。と述べている。

◇野坂昭如著「火垂るの墓」の兄妹は親戚の人からの嫌がらせを受け、いたたまれずに 家を出て浮浪児になった。
テレビで放映されているので知っている人もいると思うが、あの親戚の嫌がらせは、私たち孤児の身の上に現実にあったことである。

浮浪児の生活 地獄をはいまわる
 浮浪児は全国で35、000人(朝日年鑑)とも40、000人(新聞記事)ともいわれている。
人が集まる駅などにたむろして、汚い手を差し出し物乞いをするが、これでは空きすぎた腹の足しにはならない。ゴミ箱をあさつても食べ物がない時代だった。
ある子は棄ててあった腐ったものを食べて死んだ。
「一週間も10日間も食べられないときもあった。生きるためには盗むしかなかった。
盗むと大人から殴る蹴る、こん棒で殴ると、それはひどい仕打ちをうけた」と語る子もいた。 
良寛さんは「快楽のために盗むのは悪だが、生きるために盗むのは悪ではない」といっている。
浅草で浮浪児を集め育てていた坊さんが、食べ物がなく子どもたちが次々に死んでいくのをみて、たまらなくなって「地獄へ堕ちろ」と孤児たちを放った。
「盗みをしてでも生きろ。何でもしろ」といいたかったのだろう。

 浮浪児は上野駅地下道などコンクリートの上にごろ寝する。
上野地下道には数千名に及ぶ浮浪者が住みつき、しらみだらけのボロボロの服、汚れた真っ黒な顔、鼻が曲がりそうな臭い匂いに、世間から爪弾きにされ、忌み嫌われていた。
ツバを吐きかけられたりした。
「野良犬。乞食。汚い、近づくな。目をあわせるな。あれは人間のクズだ」まるで汚物のように見られた。
当時の大学生らの調査によると、浮浪児の大半が絶望と答えている。
一筋の光もない生活だったのだろう。 餓死、凍死、病死、変死と幼い子ほど先に死んでいった。
昭和22年元旦から7日まで、各家庭で親子が楽しい正月を過ごしている時期に、上野地下道では11人が凍死している(朝日、昭和22年1月9日)
だれの介護もなく、ひっそりと死んでいく孤児たち。
毎日、つぎつぎ死んでいく子どもを見ながら、「明日は自分も死んでいるかもしれない」と、死と隣り合わせに生きる生活だった。
「あの駅の地下道の、飢えと寒さに中でひしめいていた孤児たちにとって、政治はなかった。
宗教も文化もなかった。
大福の1個でもくれる相手なら、戦犯でもユダであろうとよかったのだ。
地下道で子どもが死んでゆく時、町を通っていったあの革命の歌の虚しさを忘れられない。
(中略) 親を殺し、家を焼き、子どもの権利も尊厳も奪いあげて、焼け跡へ放り出し、勝手に生きろ(勝手に死ね)だったのだ。
国家補償は何もない。
路頭に迷い、学業の道も閉ざされ、ネズミのように生きてきたこどもに対して!。ああ、ふしぎの国」と西村滋氏(作家)は述べている。 

捕まえても捕まえても、次々と増える浮浪児に、世間は冷たかった。
「浮浪児は貧民窟の子どもらが、面白がって盗みや悪さをしているのだろう。ヤツラは不良少年だよ。社会に害毒を流しててるんだ。アイツらは性悪で手に負えないガキどもだ」といわれ、私は絶句した。
世間はそのような目で浮浪児を見ていたのだった。
当時の新聞にも浮浪児を厄介者扱いしている記事が多いのに驚かされる。
「だれも好きで浮浪児になりたいものか。親を返せ」と叫ぶ子どもの声が聞こえてくる。
駅ホームで佇む浮浪児の写真がある(朝日新聞、昭和21年2月7日)
この子はボロ服で、寒空にハダシ、しかも片足が焼けている。
その表情の暗さ虚無に胸を衝かれ涙がでた。
 戦争さえなかったなら孤児にならずにすんだ子どもたちは、国からも社会からも見放されていたのだった。
 10歳前後の浮浪児は、新聞売り、靴みがき、スリ、かっぱらい、置き引きなどありとあららゆる方法で飢えを凌いでいた。
ヤクザの子分になったり、スリの手先になったり、身売りされた子もいた。
親という後盾をなくした孤児たちは、大人に利用されていくようになる。
敗戦後の大人の豹変ぶり、大人から受ける虐待などで、全く大人を信用できなくなり、子どもの心は荒れ果てていく一方だった。 

浮浪児狩り
 
浮浪児はアメリカ占領軍の「目障りだから浮浪児を一掃せよ」という命令をうけ、国は「刈り込み」と称して浮浪児を捕まえ、一匹二匹とトラックに放り込み各収容施設に送り込んた。
収容先は定員の数倍にふくれあがったといわれている。
 その孤児の収容施設は、粗悪な食事に軍隊もどきの厳しい体罰の日常化、逃げ出さないよう丸ハダカにする。
窓のない一部屋に15人ほど押し込め、カギをかけて閉じこめる。
まさに牢獄の生活であった。
犯罪者扱いで、孤児たちはスキをみて脱走した。
 昭和21年7月にお台場で撮られた孤児写真(毎日新聞)にも大きな衝撃をうけた。
当時お台場にはアメリカ占領軍の食料倉庫があった。
その食料をめざして孤児たちが盗みに入る。
盗みをした孤児たちを捕まえ、逃げ出さないようにハダカにして鉄格子の中に閉じこめた。
猿よりひどい扱いであり、人間扱いしていない。
大人の起こした無謀な戦争で、親も家も奪われ、孤児にさせられた子に対して、この子らに罪があるのか。
 浮浪児狩りをしても、あとからあとから浮浪児が増えていく。
これは前述したように親戚や養子先を逃げ出す子が後をたたないからである。

 Yさん(小3女)は空襲で親を亡くし親戚に預けられたが、あまりの重労働に2年すぎに逃げ出し浮浪児になった。
2日に1回、ボランティアが配るおにぎり1個で生きてきた。
刈り込みにあいトラックに載せられ夜道をひた走り山奥にはいり、そこで棄てられた。
未来のある子どもを棄てるとは…。
彼女は小3までの学業で止まり、東京空襲訴訟の原告になって、「私の人生を返せ。死んでも死にきれない」と訴えている。
 人間としての尊厳、人格も破壊され、ドブネズミのように生きてきた浮浪児だつた。
誰ひとりとして自分が孤児になるとは、一度も考えたことがなかった。
戦争は遠い所で行うもので、大人たちが子どもを護ってくれると信じていた。その大人から、棄てたり、犯罪者に仕立てたりされたりした。
 国は戦争孤児を親類縁者に孤児を押しつけ、訴える術のない孤児を無視、放置してきたために、浮浪児という大きな社会問題が発生した。
世間一般の人たちは浮浪児を「手に負えないガキども」として軽蔑し、差別してきた。

Commented by morigurasi at 2016-08-20 10:18
言葉を失い涙…これが真実だったと思います。子供や老人達、力の無いものが最大の犠牲者になるのが戦争という人類の歴史で一番醜いもの。大人という名の無責任が顕著になる社会現象。おににもほとけにもなれる私達なのですね。選ぶのは私たち自身…また涙…です。
Commented by eblo at 2016-08-20 10:52
morigurasiさん、ありがとうございます。
この文章を読んで涙、私が以前コメントに書かせていただいた感性の方だと確信しました。
どうして大人たちが残酷になれるのか今でも理解できません、その当時の経験がないからでしょうか。
「その時」にたとえ僅かでも自分の食べ物を分けられる人になるか、棍棒で殴る側になるのか、こんな記事を載せながら分からないでいます。
今は「心の勉強」ではないのかな?、そんな気がしています。
Commented by weloveai at 2016-08-21 07:05
小学校の時映画鑑賞の時間に町の映画館で見た映画の一部の記憶が残ってます。
あらすじは忘れましたが、働き手にもらわれてきた子供で低学年の子がうさぎ小屋に閉じこめられ
食事もろくに与えられず、檻の外に転がっていた生のサツマイモを食べて死んでしまうのです。
その家の者も特別驚くでもなく・・・この場面がずっと記憶に残ってます。
この時の大人たちの非情が理解できなかったのは浮浪児たちの事を扱った映画だったのでしょう。
残留孤児の方達も大変な思いで日本に帰ってます。
人間は戦争によってこんなにも非情な事が出来てしまうのだと知るべきです。
無知 無理解が生む行為なのでしょう。
Commented by eblo at 2016-08-21 12:36
weloveaiさん、遅ればせながら、お誕生日おめでとうございます。

昨日のNHKテレビ、沖縄が日本から捨てられた話でした。
子どもはお腹が膨れ、あばら骨がくっきりと出ていました。
残留孤児も含む戦争孤児、忘れられようとしている数限りない戦争の犠牲。
その当時の国家の役人からの後悔の弁はほとんど聞かれません。
為政者が、過去を正義だと言い張る限り、個人の弱い者苛めは正当化されてしまう気がします。
動画の中に刀で苛めっ子を殺そうとした方が登場します。
「二人や三人死んでも・・・」その当時の当然の考え方だったようです。
「心が麻痺する」戦争経験が無い世代には分かりませんが、たった70年前には当然だった、そしてこれから我々世代も経験するかもしれない、怖ろしいです。
名前
URL
削除用パスワード
by eblo | 2016-08-20 09:12 | Comments(4)